私の履歴書
  お恵ちゃんの思い出
 
                            青空たのし
 
第 一 章 「司 会 者 一 年 生」
 
 運否天賦は風まかせ、浮き世街道儘ならぬ賽の目一つで進路が変わる双六に思う、

羽根つき、凧揚げ、独楽、双六、カルタ、和服に日本髪と揃えば昔ながらの正月情緒であ
 
る。昨今はレジャーが豊富で、不況とはいえ海外で正月を過ごす人も少なくない。子供は
 
流行のファミコンゲームに夢中、昔の正月は羽根つきに興じ顔に墨をぬられて大はしゃぎ、
 
子供も大人も一緒になってカルタや双六で遊んだものだった、今の正月にこんな遊びをす
 
る人が居るのかなァ・・・双六を知らない子供もいる。人生の出発と双六の始めは、どち
 
らも最初は簡単、人はオギャーと生まれ、双六は賽子(さいころ)コロリと振り出しスター
 
ト、その後が大変である、途中は快調の時もあるが、しかし行きつ戻りつ、なかなか

上がれない。人生とはそんなもの、私の芸能泣き笑い人生の拙文にお付き合い下さい。


多情多感な少年時代を戦中戦後の混乱期に育ち昭和二十四年岡晴夫さんに憧れて芸能界入
 
り、と云うと格好良いけど旅の一座が初舞台、歌と芝居と雑用と薄給に耐えての下積み時
 
代が続く、「顔の造作が小さいから役者には向かないかも」と座長に云われ、声も良くは
 
ないし?・・役者も歌手も諦め司会者に転向、何と云う変わり身の早さであろうか、東海
 
林太郎、楠木繁夫、青葉笙子、美ち奴さん等当時のベテラン歌手の司会や、旅回りの小さ
 
な歌謡ショウの司会を手がけるうちに岡晴夫さんに拾われお世話になる、神田一郎と名付
 
けて頂き専属司会者として三年間勤めた頃、岡晴夫と楽団ニュースターの巡業は終り、三
 
ヶ月後に一行は一時解散すると云う事になった、今で云う自宅待機である。次の仕事の為
 
に慌てヽ相棒探しをはじめた、昭和三十年代は立体司会と称するスタイルが流行っていた、
 
つまり男性司会者二人が漫才風に掛け合いで司会をするのである。当時、冗談音楽の「ハ
 
ッピーボーイズ」瓶九郎、空みたか、海ひろし、と云うトリオがあった。このリーダーの
 
瓶さんは私が初めて入った楽劇団のバンドマスターだった関係で気心も知り尽くし、人柄
 
も最高で誰からも好かれる紳士であった。その瓶さんを口説きコンビを結成、岡晴夫さん
 
が命名して、彼は中野四郎と名乗る事になった。そして三ヶ月後は予告通り自宅待機、ま
 
さに失業である。しかし幸運の女神は再び私に微笑んでくれた。「岡晴夫専属司会者」の
 
肩書きが光輝いて失業から救ってくれたのである。
 
 
一日相棒の中野四郎と共にマーキュリーレコードの芸能部に顔を出すと、芸能部長の加藤
 
幸四郎さん(加藤登紀子さんのお父上)と瀬川富士夫さん(瀬川瑛子さんの叔父さん)が
 
にこやかに迎えてくれて「君達今何処の司会をしてるの?」と聞かれ「実は先週まで岡晴
 
夫さんの専属で現在はフリーです」と答えると加藤部長はひと膝乗りだし、「丁度良い!
 
今、藤島桓夫と松山恵子の二枚看板で公演をしているがお恵ちゃんの人気が急上昇、物凄
 
い勢いなので松山恵子一枚看板にしたい、就いては司会者が必要なので君達を専属で迎え
 
たいがどうかね」何んと嬉しい話ではないか、どんな芸や司会が出来るのか舞台を未だ見
 
ぬ前に、岡晴夫専属だったと云う事で、即日専属契約が決り出演料は「一人二千円でどう
 
かね」と遠慮がちに云われたが、実はこの金額は岡晴夫さんから戴いたギャラの二倍、相
 
方の中野四郎氏と顔を見合わせニヤッと笑った、文字通りの所得倍増。実に岡さんのお陰
 
である、その上幸運にも自宅待機は一週間で終り、双六で云えば三段飛び五段飛び、上が
 
り目前といった格好、翌週からはお恵ちゃんとの楽しい舞台が待っていた。                
      

第 二 章 「松 山 恵 子 専 属 司 会 者」
 
  あんた泣いてんのネ  だから云ったじゃないの
  港の酒場へ 飲みにくる  男なんかの云うことをバカネ
  ほんきにほんきにするなんて  まったくあんたは うぶなのね
  罪なやつだよ 鴎鳥
 
「未練の波止場」のヒットに続く松山恵子の爆発的大ヒット、「だから云ったじゃないの」
 
この曲は、お恵ちゃんがスターの座を不動のものにした傑作と云っても過言ではない。
 
出だしは唄わずに「あんた泣いてんのネ」と語りかける、これが当時の歌謡ファンに大い
 
に受けた「あんた・・・」が流行語になり大人も子供も随所で連発、演芸やお笑い番組の
 
ギャグにも使われ、お恵ちゃんは「あんたよく来てくれたはね」とやった。

時に昭和三十三年ミッチーブーム、今上陛下が皇太子時代、お妃候補正田美智子さまとの
 
ご婚約は世紀のロマンスとして全国民が祝福申し上げ、翌年のご成婚当日は若いカップル
 
が我も我もとあやかり結婚で式場は大繁盛であったとか、その年は空前の結婚ブームとな
 
り、かく言う私もその一組であった。


大相撲が年六場所制になり、横綱若の花(先代二子山親方)が誕生して、栃錦と人気を二
 
分する栃若時代が到来住宅難解消策として団地が出来始め「団地族」「ベッドタウン」が
 
流行語になり、TVでは「月光仮面」が大人気、三木のり平さんのCM「江戸むらさき」
 
に国定忠治が登場、あれからもう四十数年、実に息の長いCMはお見事である。

聖徳太子の一万円札が発行されたのが同年、現在は福沢さんに変わったが当時の一万円は
 
価値があったなァー。 何しろサラリーマンの給料袋に聖徳太子が一枚か二枚しか入って
 
ない、薄っぺらになり、千円札の方が厚くて、しかも使い易いなんて嘆いたものだ。


そんな世相を背景にお恵ちゃんの専属司会者として私、神田一郎と中野四郎は全国を回り、
 
月に六人七人も聖徳太子が我が懐に来てくれた。若さに任せて呑んで遊んで我が世の春を
 
満喫?しかし三十三年二月売春防止法が施行され江戸の昔から続いた吉原も新宿の赤線青
 
線も灯が消えて、世の男性は若さを持て余す夜もしばしば、膝を抱えて寝た昔が懐かしい。
 
「一人で寝るのは、寝るのじゃないよ、枕抱えて横に立つ」・・・・・・
 
有り余るエネルギーを舞台に向けてお恵ちゃんの司会に没頭した。

来る日も来る日も満員御礼、特に港町には人気があり、海が時化の日は漁に出られないの
 
で間違いなく超満員、と云ってもたかが田舎の映画館は三百〜五百人位の定員、今の様に
 
千人以上収容出来る会場が無かった当時は必ず一日三回公演だった、最近TVで大きな落
 
下傘スタイルのドレスで唄うお恵ちゃんを時折見るが、デビュー当時と全くイメージが変
 
わっていない、当時は今ほど大きくない純白の落下傘スタイルのドレスで、全く生きたフ
 
ランス人形の愛らしさ、色白で本当に可愛いかった、しかし小さな映画館の舞台は狭くて、
 
そのドレスも着られない時も多々あった。変わらないのは見かけだけではない、声も若さ
 
も明るさも、そしてあの人懐っこい人柄である、青空たのしを名乗って四十年以上になる
 
が、今も神田一郎時代の愛称「神(カン)ちゃん」と呼んでくれる、現在私が担当してい
 
るラジオのレギュラー番組にゲストとして度々出演してくれるお恵ちゃんと、マイクに向
 
かい何時も昔話に花が咲く、タイムスリップした様な楽しいひとときが本当に嬉しい。
               


第 三 章 「司 会 は 楽 し」
 
 世相の移り変わりと共に、唄う事が商売の歌手の職場も様変わりしてしまった昨今であ
 
る昭和三十年代まで地方公演が全盛期であったが、テレビの普及により昭和四十年代に入
 
ると次第に減少の一途を辿り、観客動員が難しくなって、キャバレーやナイトクラブに舞
 
台が移り、歌謡ショーを主としていた有名な劇場が相次いで姿を消していった、東京の日
 
劇、浅草国際劇場、大阪の大劇等が閉館して久しい、それらの舞台には私も大勢の歌手

と出演した懐かしい想い出が一杯ある。伝統ある歌舞伎座や京都南座は別格として芝居と
 
歌謡ショーを両立する商業劇場も少なくなり、新宿と大阪のコマ劇場、明治座、新橋演舞
 
場、名古屋御園座等に出演出来るのは、極僅かなビッグスターのみ、座長としての一ヶ月
 
公演は人気と実力が無ければ不可能なこと、熱心なファンに支えられている事と思うが、
 
不況の折から観客動員は大変である、興行界は超ビックな人気歌手以外は採算割れ、しかも

主として土日と祝祭日しか興行出来ないのが現状である。企業の記念行事や団体客の慰安
 
会等、昔は商店街の売り出しの目玉は歌謡ショーと定まっていたが、バブル景気の最中は
 
海外旅行に替わり、バブル崩壊後は招待会も全く少なくなった。そこで流行がホテル主催
 
のディナーショー、しかしこれも食傷気味である。若い歌手は夜のスナックに唄う場所を
 
求める人も居るが、今はお客の方が唄いたい時代で生半可な歌は聴きたくないと言う。
 
果たして次の職場は何んだろうか? さて、昭和三十年代は歌謡界にとっても、私にとっ
 
ても本当に良い時代であった。


お恵ちゃんこと松山恵子専属司会者として約二年半、千八百回程の舞台を勤めた、ウッソ
 
ー!何でそんな数になるの?と読者諸氏はお思いでしょうが、計算はいたって簡単、当時
 
は月に二十日間以上舞台公演が有り、しかも一日三回公演なので一年間に七百二十回にな
 
る、二年半の合計は千八百回、十年で七千二百回と云う信じられない様な数になるわけで
 
ある。私は岡晴夫、松山恵子、村田英雄、守屋浩、五月みどり、北原謙二、都はるみ、

青山和子さん等当時のスター歌手の司会を十年以上勤めた。 松山恵子事務所の仕事をし
 
ていた頃、昭和三十四年十一月に私が結婚した、すると「世帯を持つと大変だろうからギ
 
ャラを千円アップして上げよう」と五割増しとなり、現在の芸能界では、とても考えられ
 
ない事で、その温情は今も尚、忘れられない有り難く嬉しい思い出ある。何処へ行っても
 
大入り満員、お恵ちゃんの「マドロス次郎ちゃん」という曲をテーマにコントを交えての
 
楽しい舞台が続いた、お恵ちゃんが船長、我々が下級船員の役で、甲板掃除をサボった罰
 
にバケツの水を掛けられる場面で、普段は真似だけの脅しなのに、本物の水を掛けられ吃
 
驚した事も有った。「お別れ公衆電話」がヒットして益々人気はウナギ登り、当時、やは
 
り人気絶頂の白根一男さんと合同公演で二週間九州地方を廻った、スマートでソフトな歌
 
唱の白根さんと人気を二分して、いや、寧ろ上回るお恵ちゃんファンの熱気を感じ、毎日
 
の舞台が実に楽しかった。
 

此の二週間の公演中に白根さんの専属バンドをお恵ちゃんが非常にお気に入りで、翌月か
 
ら専属にしてしまった、詰まり引き抜き工作が成功したのである。バンドが替わって初日
 
の舞台は愛知県豊橋での公演、処が現地に着いて気がつくとマネージャーが譜面をそっく
 
り東京へ忘れてきてしまった、さぁー大変、譜面が無くては舞台の幕が開かない、今の様
 
に新幹線が、まだ無い時代である、電話で連絡して直ぐに飛び乗っても絶対に間に合わな
 
い、全く万事休すである
 


第 四 章 「生 涯 現 役」
 
日進月歩なんて言葉はもう古く、日々移り変わり明日がわからない昨今である。東海道新
 
幹線の東京〜名古屋間を「のぞみ号」は一時間三〇分で走っている、実に早くて便利にな
 
り、昔を知る人は隔世の感がある。在来線の「特急こだま」でさえ四時間掛かり、それで
 
も早いなと感じた。そんな時代に特急の停車しない豊橋では、東京に忘れた物が半日で届
 
くなんて事は夢のまた夢、全く不可能に近い。積み込み忘れた譜面が届くのは夜になって
 
仕舞う、昼の舞台は幕が開かない、松山恵子一行のマネージャーはじめスタッフ全員が真
 
っ青、どうしょう!その時バンドマスターの玉置要さんが「譜面無しで何とかやってみま
 
す」と云ってリハーサルを始めた、果たして演奏出来るのか、一同の心配をよそに初めは
 
辿々しかったが、次第に調子が出てきて、一時間三〇分ショーの二〇曲余りを完璧に演奏
 
する事が出来た。つまり白根一男さんと一緒に九州を二週間廻った時、一日三回公演で延
 
べ四二回演奏する内にすっかり暗譜して仕舞っていたのである。岡晴夫さんの専属バンド
 
「楽団ニュースター」も譜面台に一枚も譜面が載っていなかった事を思い出した。それに
 
しても凄い、良くやったと大拍手、お恵ちゃんからバンドのメンバーにご褒美が出たのも
 
当然、酒と金一封でその夜は大いに盛り上がった。


お恵ちゃんの一行は実に家庭的な雰囲気の温かい一座であった、四国を巡業中の旅先で彼
 
女の二〇才の誕生日を祝ったことがあった、あれから何年たったかなぁー、今も本当に明
 
るく元気にお恵ちゃんは唄っている。昭和三十四年の夏、松山恵子一行全員で銚子の犬吠
 
崎に二泊三日のキャンプに出かけた、松林の小さなバンガローに三人ずつ入り、暗い灯り
 
で一杯飲んで、板張りの床にごろ寝、身体が痛いの何の、その上藪蚊に攻められ、とて

も寝ていられない、深夜にコッソリ三人で抜け出し町の安い宿屋に泊り、翌朝早く帰って
 
 
何食わぬ顔、お恵ちゃんは蚊に喰われ、さぞや寝不足の事だったろうと、少し後ろめたさ
 
を感じ、私が料理番をやるからなんて頑張っちゃった。

初日はカレー二日目はシチューと汗を流して作ったが味はいまいちで散々、「文句を云な、
 
戦時中はこれでも大ご馳走だぞ」と皆んなが笑いながら食べてくれた。


ところで私は水泳が上手い、自慢じゃないが実に達者、荒川で育った河童なのである。料
 
理の不評を名誉挽回とばかりに格好良く泳いで見せ、高い岩の上から飛び込みスタッフの
 
喝采を浴びて気分爽快。最終日の昼食後、灯台下の岩場で写真を撮ろうと云うことで、相
 
方の中野四郎氏自慢のカメラの前に順に立つ、東映映画の最初の場面を思い浮かべて欲し
 
い、大小の岩に大波が打ち寄せ砕ける、あのシーンと同じ様な犬吠崎の岩場である、

私が立つと直ぐ、大波が砕けて体を包んだ瞬間、足が滑り岩の上に四つん這い、一緒に肩
 
を組んでいたバンドの人は辛うじて岸に上がる事が出来たが、私はふわりと足元の水に浮
 
き、潮に引かれて海中にドブン!さァー大変今立っていた岩が何メートルも頭の上、波が
 
寄せる度に岩に叩きつけられること三度、こりゃ死ぬのかなと思った、しかし引き潮で岩
 
礁の外に運ばれ沖に流され始めた、流石の河童も台風の余波で一丈も有る坊主波には勝て
 
ず、流れに任せ一キロ余り、沖へ行く程水は冷たく心細い。二時間後に隣村の漁師三人が
 
小舟を漕いで救助に来てくれた。一週間の軽傷程度で九死に一生を得る事が出来た。思え
 
ば私の次にお恵ちゃんが、その岩に立つ筈だった、もし大波が少し遅れて来ていたらお恵
 
ちゃんがさらわれ、一大事になり現在のお恵ちゃんは?・・・・何故なら其の岩場に落ちて助
 
かった人は無かったとの事、漁師曰く「貴方は長生きするよ」だってサ。

その日の夕刊に「松山恵子専属司会者神田一郎土用波に流され危うく助かる」結婚まで後
 
二ヶ月、時に昭和三十四年八月三十一日日曜日・・・あれから四十五年、光陰矢のごとし、
 
実に早いものである、お恵ちゃんも現役で元気に唄ってる、

私も負けずに頑張ろう生涯現役で。         完